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       満州からの引揚者の方達の苦労話をみなさん時々は耳にされたことがある

思います。私の両親もそんな引揚者の仲間でした。引き上げ時を含め、

満州で3人の姉を産み、栄養失調と闘いながら無事に日本に辿りついた両

親は、母の生まれ育った実家のある天川村洞川に新しい居を構え、生活を

始めました。居といっても母の実家の6畳一間を借り、狭いながらも楽し

い我が家といったところでしょうか。洞川は大峯山の麓にある小

山村ですが、参詣達の宿泊する旅館がたくさんあって、人

の出入りの多い栄えた村だったと聞いています。もちろん洞川は

今も特な村です。陀羅尼助という胃腸薬でも有名ですよね。一番上の姉

だけは天川の小学校に通っていました。その姉が8歳の時の凍りつくよう

寒い日に産気づいた母は産婆さんが来る前に私を自力で産みました。

母から聞いた話ですが、昔から女の子は仰向けに、男の子はうつ伏せに

って産まれ出るそうなのです。しかし私はうつ伏せで産まれ出ました。

母はうつ伏せ状態でオギャーと泣いている私を見てやっと男の子が授か

たと喜んだのもつかの間、抱きかかえると女の子だったので母は少し

っかりしたそうです。そんな訳で4姉妹の末っ子として私はこの世に

生を受けました。  

 私は生まれた洞川の記憶を留める間も無く、父の実家のある大阪阿倍野

区昭和町に生後半年で移り住み、父はそこで呉服商を始めたのです。呉服

      商といっても店は無く、父が反物を仕入れて注文を取り、裁

      縫大好きだた母が売れた反物を独学で仕立てるといった

      具合です。私の記憶では袴自力で見事に仕立てていました。

その当時は電気も水道もガスもまだ整備されていない時代です。内風呂は

あったのですがもちろん五右衛門風呂で、薪で沸かしていました。道路も

まだアスファルトじゃなかったような気がします。雨が降ると水溜りがあ

ちこちに出来ていましたから。

  小学校に入る頃から姉妹全員、お琴を習わされまし

た。家が呉服商という事が大いに関係していたと思い

ます。お琴の先生は親戚の叔母さんでした。毎週1回、

歩いて30分の所にある叔母さんの家まで通いました。叔母さんの家には

玄関に凶暴な犬が居ました。私は小さい頃から動物が大好きでしたがその

犬には最後までなついてもらえませんでした。一度、ワンワンと牙をむい

て吼えるその犬とどうにかして仲良くなろうと優しく手を出したとたんに

手をガブっと噛み付かれ、血だらけになって帰ったこともありました。  

  正月になると叔母さんの家で初弾きがあります。その時は姉妹全員晴

着を着せてもらいすまし顔で琴を弾いたものです。我が家にも2台お琴

がありました。私は熱心な生徒ではなかったのであまり家では練習しませ

んでしたが、姉達はとても練習熱心で上手でしたよ。三味線も時々弾いた

りしていました。その時はあまり好きになれなかった邦楽でしたが、今は

TVなどでよく邦楽番組を観たりします。年を重ねて邦楽の素晴らしさを理

解出来るようになりました。それは音楽の仕事の経験の積み重ねのお陰か

もしれません。  

  話が前後しますが、TVが家に来るまでは、ラジオの人気番組を家族全員

で楽しんでいました。私は幼いながらも当時流行していた浪花節が好きで

た。「目ん無い千鳥」という浪花節をご存知でしょうか?哀しい物語だ

ったように記憶しています。浪花節は途中台詞が入り、その台詞にわけも

わからず涙していた私でした。  

  ラジオも当時の娯楽の一つでしたが、映画もとても人気がありました。

なんと我が家から歩いて2・3分の所に2件も映画館があったのです。驚き

ですよね。よく連れていってもらいました。記憶に残っているのは「四谷

怪談」とか「猫ばば」といったような怖い 映画ばかりですが。  

  家の前は長屋で、我が家の3件先には氷屋もありました。家の通りの

にはうどん屋もありました。夏になると玄関に縁台を置き、父はよく近

所の人と将棋をしていたようです。

  阪に移って姉達は近所の小学校に転入しました。

 転入する為の面接時の話はちょっと可笑しくて、か

 なり哀しい出来事として両親から聞かさました。

 それはどんな面接だったかと言うと、先生が姉の耳

 元に時計を近づけ、「これは何の音ですか?」と質問された時の姉の答

 えです。姉は時計の音をそれまで聞いたことがあったのか無かったのか

 分かりませが、緊張していたのでしょう、「虱を潰す音です!」と答

えたそうです。その時の先生の心の内はきっと「オーマイゴッド!」だっ

たのではないでしょうか。満州から引き上げ、貧しい山村暮らしを経ての

ことですから無理もない答えだと私は思います。

 私は幼稚園に入園するまで姉達が学校に通っている間は母の長い裁縫台

の前に座って 覚束ない手付きで母に教えてもらった運針の真似事をしたり、

反物の包み紙に絵を描いたりして遊んでいました。母は何時寝て

いるのかと思う程早朝から深夜までいつも裁縫台の前に座り着物

の仕立て仕事をしていました。もちろん食事の支度やお風呂の残

り湯で家族の山のよう濯物、日常の細々とした仕事もきちん

としつつの事です。過酷な針仕事を続けたせいで目を悪くし、医者から針

つ事を禁じられるまでの30年間身を粉にして働き娘4人を育ててく

れました。

 父は家具(食卓、椅子、勉強机など)や掘り炬燵、そしてミシンで私の

よそ行きの服まで作ってしまう程器用な人でした。60

で呉服の仕事をやめ、日本画教室に2年通い習い後は先生

に見込まれて日本画教室で教え程絵の上達が早かったそ

うです。満州時代によく石仏を写生していたといていま

したので絵を描くことは昔から好きだったのでしょう。

                                               続く


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